日々感じた事を載せています。戯言なので厳しいご意見ご勘弁下さい。
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9日、私は2トントラックに乗って、旭川に行った、旭川で廃油を集めてくれている仲間の千葉さんのところへ廃油を頂に行ったのだ。
天気は最高にいい、国道12号線を北上し石狩川畔をさかのぼって新緑に覆われた旭川は素敵であった。千葉さんは、もと高校の教師で、今は障害施設の理事長をしている。仕事の合間に天ぷら廃油を集めて燃料を作っている、その余った分を頂いてくるのが目的であった。
帰りは、赤平に回って、かねてからたずねてみたいと思っていた滝川ナタネ生産組合長の宮井誠一さん宅を訪ねた。訪ねたといっても、住所だけネットで拾って、尋ねるわけだから、まったく心もとないが、行く先先に人はいる、聞いていけば何とかなると気軽な気持ちでよることにした。
滝川道の駅の売店で、まず聞いた、親切に道路地図まで書いてくれた、ありがたいことであった。
ところが、簡略すぎて、また聞くことになった、今度聞いた人は、もと長距離トッラックの運転手だったというからかなり正確で要領がよかった。目的地の赤平市住吉といっても田んぼが広がる田園地帯、川に沿って田んぼが広がるばかりであった。かなり行ってから、学校帰りの女子高生に会った。またまた親切に教えてくれた
聞いてみるとそこは私ちのとなりだという、今、親が迎えに来るからと親切この上ない。
両親が乗った車に先導されて無事宮井宅についた。暖かい空知の人々に感謝したい。
天気は最高にいい、国道12号線を北上し石狩川畔をさかのぼって新緑に覆われた旭川は素敵であった。千葉さんは、もと高校の教師で、今は障害施設の理事長をしている。仕事の合間に天ぷら廃油を集めて燃料を作っている、その余った分を頂いてくるのが目的であった。
帰りは、赤平に回って、かねてからたずねてみたいと思っていた滝川ナタネ生産組合長の宮井誠一さん宅を訪ねた。訪ねたといっても、住所だけネットで拾って、尋ねるわけだから、まったく心もとないが、行く先先に人はいる、聞いていけば何とかなると気軽な気持ちでよることにした。
滝川道の駅の売店で、まず聞いた、親切に道路地図まで書いてくれた、ありがたいことであった。
ところが、簡略すぎて、また聞くことになった、今度聞いた人は、もと長距離トッラックの運転手だったというからかなり正確で要領がよかった。目的地の赤平市住吉といっても田んぼが広がる田園地帯、川に沿って田んぼが広がるばかりであった。かなり行ってから、学校帰りの女子高生に会った。またまた親切に教えてくれた
聞いてみるとそこは私ちのとなりだという、今、親が迎えに来るからと親切この上ない。
両親が乗った車に先導されて無事宮井宅についた。暖かい空知の人々に感謝したい。
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とにかく、佐藤弘毅さんのバイオ車に乗せてもらって、すっかりいい気分になっった。捨てる廃油を生かして自動車を走らすなんて、こんな素敵なことはない、地球温暖化が進む中で何かをしなければならないと思っていた矢先でもあり、僕にぴったりかな。。。と思うようになった。さらに、この広い北海道をこのエコ車に乗って存分に走ってみたいと思うようになった。
廃油があってこそ、この車が走り、普及が出来るのだということを知った。どうやって廃油を集めるのか、いろいろ考えた末、佐藤さんはタンクシステムを普及させること、私は廃油を集め、燃料を作り、販売することを分担することがきまった。
こうして06年7月からたった一人で廃油を集め始めた、1年以上1人でやってきて、個人の限界をイヤというほど知らされた、こうした経緯から、07年11月に他の2人の協力者に呼びかけて、当社を発足させ今日にいったのであった。
この間に、有形無形のいろいろな援助が数多くの人から頂いた。これらの方々の援助に心からの感謝をささげたいと思っている。
廃油があってこそ、この車が走り、普及が出来るのだということを知った。どうやって廃油を集めるのか、いろいろ考えた末、佐藤さんはタンクシステムを普及させること、私は廃油を集め、燃料を作り、販売することを分担することがきまった。
こうして06年7月からたった一人で廃油を集め始めた、1年以上1人でやってきて、個人の限界をイヤというほど知らされた、こうした経緯から、07年11月に他の2人の協力者に呼びかけて、当社を発足させ今日にいったのであった。
この間に、有形無形のいろいろな援助が数多くの人から頂いた。これらの方々の援助に心からの感謝をささげたいと思っている。
SVFの燃料で走るビックホーンにのって向かったところが、障害施設であった。佐藤施設長の下で、中年の障害者がSVF燃料を一心に作っていた。別なところではBDFも作っていた。かなり重そうな精製機が動いていた。
私にはどちらがどんな特徴を持った燃料かはこの段階では知る由もなかった。
とにかく、天ぷら廃油で車が走ること、軽油と違わない馬力を出して普通に走っていることに、まったく驚くばかりであった。
私にはどちらがどんな特徴を持った燃料かはこの段階では知る由もなかった。
とにかく、天ぷら廃油で車が走ること、軽油と違わない馬力を出して普通に走っていることに、まったく驚くばかりであった。
佐藤先生はすぐにやってきた。SVF燃料使用車と書かれた三菱のビックホーンにのってきた。私にその車を運転せよというのだ。
当たり前のように運転した、デイーゼル特有のかん高いエンジン音と振動がするばかりである。
しばらく走った後でこれが、天ぷら廃油で走っている車だといった。
何の説明もなしに、運転した車がSVF車なのであった。
当たり前のように運転した、デイーゼル特有のかん高いエンジン音と振動がするばかりである。
しばらく走った後でこれが、天ぷら廃油で走っている車だといった。
何の説明もなしに、運転した車がSVF車なのであった。
私は70才、世に言う高齢者である。贅沢さえしなければ年金で何とか生活は出来るし孫も高校生になっている、いいおじいちゃんでいればそれですむ年代である。
最後の仕事は、65歳で退職した。そのときは糖尿の境界型、肝臓に水がたまる肝膿胞になっていたし、喘息にもなっていた。
このままでは、やがてお陀仏と思った。現役から引退したのはこれが理由だった。
2年間は入院を繰り返し、肝臓の治療を札幌の病院で行っていたとき健康に関する本を読みあさった。そして行き着いたのがマクロビオテック(日本的にいうと食養法)だった。
出来るだけ肉食をさけ、玄米や野菜を取るようにした。家族は面倒くさいといいって、あまり相手にしてくれなかったので、自分で圧力釜を調達し、自分で焚いて食べた。現役時代は、夜遅く夕食を食べたり、遅くまで酒を飲んで寝た、手当たりしだいなんでも食べていたが、生活のあり方と食事を根本から改め実践した。
このことが、功を奏し、わたしの健康を改善してくれていた。
そんなある日「菜の花プロジェクト」の新聞記事を読んだ。捨てるはずの天ぷら廃油で自動車を走らせる環境運動に取り組んでいる本州のとりくみだった。
これは面白いアイデアであると思った。「北海道でもうまく行かないか」と考えてみた。
そういえば、私の知人に佐藤という、元苫小牧工業高校の化学の先生がいて、廃油で車を走らせている記事が地元紙にのったのを思い出した。早速電話できいてみた。2006年5月15日のことだった。
最後の仕事は、65歳で退職した。そのときは糖尿の境界型、肝臓に水がたまる肝膿胞になっていたし、喘息にもなっていた。
このままでは、やがてお陀仏と思った。現役から引退したのはこれが理由だった。
2年間は入院を繰り返し、肝臓の治療を札幌の病院で行っていたとき健康に関する本を読みあさった。そして行き着いたのがマクロビオテック(日本的にいうと食養法)だった。
出来るだけ肉食をさけ、玄米や野菜を取るようにした。家族は面倒くさいといいって、あまり相手にしてくれなかったので、自分で圧力釜を調達し、自分で焚いて食べた。現役時代は、夜遅く夕食を食べたり、遅くまで酒を飲んで寝た、手当たりしだいなんでも食べていたが、生活のあり方と食事を根本から改め実践した。
このことが、功を奏し、わたしの健康を改善してくれていた。
そんなある日「菜の花プロジェクト」の新聞記事を読んだ。捨てるはずの天ぷら廃油で自動車を走らせる環境運動に取り組んでいる本州のとりくみだった。
これは面白いアイデアであると思った。「北海道でもうまく行かないか」と考えてみた。
そういえば、私の知人に佐藤という、元苫小牧工業高校の化学の先生がいて、廃油で車を走らせている記事が地元紙にのったのを思い出した。早速電話できいてみた。2006年5月15日のことだった。